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リサコラム
本日のオードブル

第58回

"文ちゃん"
 
木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンに1990年より勤務し、400名以上の顧客を持つ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書”シンプル&ラグジュアリーに暮らす”(ダイヤモンド社)(06年6月)がある。
道楽は、ベッドメイキング、掃除、いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まること。
16年来のベジタリアン。ただしチーズとシャンパンは大好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。好きな作家は夏目漱石、中谷彰宏、F.サガン、プルースト

    
 ”あたしも、何か見えてきたわ”

        ”それ、それ、文ちゃん現象っていうんです”

 

       


文ちゃん



 「どうぅぉ?なんか、見える~?」「うぅ~ん、いいですね」そういうと、ジュラルミ

ン風のブリーフケースからオレンジ色のスケッチブックを抜き取り、リサコは黒い

色鉛筆でなにやら絵を描き始めた。「すばらしいですね、いい香りがしそうな世界

が広がっていますねぇ」「そうかしら?」「そうですよ、いろんな人が集まって、楽

しく忙しく歓談している風景が見えますね」“まさかリサコは霊能者ではあるまい

が”と私は思った。リサコと話しているピンヒールの女性は、これからこのオフィス

のオーナーとなる若く美しい社長。がらんとして何もない殺風景な空間は、ガラ

スドアを入って、けやき通りに面したガラス窓まで10mほどもある。入り口のすぐ

左手には約5畳ほどの個室。受付のようなカウンター越しに広々としたオフィス

は約30平米はありそうだ。私は、リサコのすぐそばで聞き耳を立てていると、彼

女はどんどん白い紙の上に黒い線を引く。「ここに仕切りのダミーカーテンつけて

と、そして、このちょっと目ざわりな天袋をバーチカルブラインドですっきり隠しまし

ょう。外の緑を生かしてぇ、3分割のレースのシェードとカーテンとぉ、
窓の中心

にコンソールおきましょ。そしてランプも。下に観葉植物をシンメトリーに。ソファー

はここ。真ん中に、テーブル2つと椅子4脚ぅ
.」「うぅん、キーボードも置きたい

のよ」「はい、では、この柱を利用して、仕切るようにして空間を作ってと
.....」リサ

コのスケッチブックにはピンヒールの社長の近い未来の空間が出来上がった。入

り口左手の部屋は、社長室。「シャンデリアに、白いデスク。白いひとりがけのソフ

ァ、後ろの飾り棚も、うぅぅん、魅力的ぃ!」「リサコさん、ちょっと来てぇ、この棚ね

多すぎると思わない?つぶしちゃおっか?」奥行き3mほどの廊下のようなスペ

ースに左右に棚が天井まで切ってある。「わぁ~、もったいないですよ。こんなす

ごい棚」「デモね、うち、ほとんど書類がないのよ。」「そうかもしれませんが、この

空間、何も書類が詰まってなくても、空っぽでも、未来が広がっているっ~て感

じがします。いろんな仕事がやってきて、未来が果てしなく広がってゆくような、

そんな余裕みたいなもの感じます」。「なるほどね、相談してホントよかったわ。

そんな意見が聞きたかったのよ」。「ホント、うらやましいです。この棚、この何も

ない空間。うらやましいです!」リサコとピンヒールの社長は意気投合したような

様子で長い時間その殺風景な景色を眺めている。



 “何もない空間、真っ白な部屋、空っぽな棚、空っぽな引き出し”、リサコはそ

れがこの上なく好きなようだ。想像力を掻き立てられるからに違いないが、私は

それが最近ようやくわかった。だから彼女の部屋のナイトテーブル5台の引き出

しにはほとんど何も入っていない。「引き出しは必ずしもそこにものを入れるため

にあるんじゃなくて、その余裕がいいのよね」と言う。“私、余裕あります”なんて

今の時代に言える人はきっと少ないに違いないけど、私はその“余裕”や“余白”

を多く持っているらしく、リサコに好かれている。彼女はわたしのことを“文ちゃん”

と呼ぶ。それには何かの思い入れがあるらしく、私の正式な名前を呼ぶことはせ

ず、いつも
(ふみ)ちゃんとだけ呼ぶ。「文ちゃん、ちょっと来てぇ、」と呼ば

れて来ても、しばらくの沈黙の後に、「やっぱり、いいわ、ごめんね」と言われること

がたびたびある。そんな時は、わたしは黙っていることに決めている。
        


 ある日、「文ちゃん、ちょっと来てぇ」と、私はまたリサコに呼び出された。「あな

たのあだな、“文ちゃん”の由来を教えてあげるから、」とリサコは私にある1冊の

古びた文庫本を開いて見せた。「これはある文人の古い書簡なんだけど、読む

から聞いててね」と言う。わたしは、彼女が音読する言葉に耳を傾けた。彼女は

その手紙の書かれた場所と日付らしきものを読み上げた。『文ちゃん、僕はまだ

この海岸で本を読んだり原稿を書いたりしながら暮らしています。
..うちへ帰っ

てからは、文ちゃんにこう云う手紙を書く機会がなくなると思いますから、奮発し

て、一つ長いのを書きます。文ちゃんを貰いたいと云う事を、僕が兄さんに話し

てから何年になるでしょう。
貰いたい理由は、たった一つあるきりです。そうし

てその理由は、僕は文ちゃんが好きだということです。
その外に理由はありま

せん。僕は、世間の人のように結婚と云うことと、いろいろな生活上の便宜という

こととを一つにして考えることのできない人間です。ですから、これだけの理由で

兄さんに文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云いました。そうして、それは頂くとも

頂かないとも、文ちゃんの考え一つできまらなければならないと云いました。


世間では僕の考え方を何と笑ってもかまいません。世間の人間は、いい加減な

見合いと、いい加減な身元しらべとで造作なく結婚しています。僕にはそれがで

きません。そのできない点で、世間より僕のほうが余程高等だとうぬぼれていま

す。とにかく、僕が文ちゃんを貰うか貰わないかという事は、全く文ちゃん次第で

決まることなのです。僕から云えば、勿論、承知して頂きたいのには、違いありま

せん。しかし、一分一厘でも、文ちゃんの考えを無理に動かすようなことがあっ

ては、文ちゃん自身にも、文ちゃんのお母様や兄さんにも、僕がすまないことに

なります。ですから、文ちゃんは完く自由に、自分でどっちともきめなければなり

ません。万一後悔するようなことがあっては大へんです。僕のやっている商売は

今の日本で一番金にならない商売です。その上、僕自身も碌に金はありません

ですから、生活の程度から云えば、いつまでたっても知れたものです。それから、

僕は、からだもあたまもあまり上等に出来上がっていません(頭のほうはそれでも

まだ少しは自信があります)。うちには、父、母、伯母、としよりが3人います。そ

れでよければ、来て下さい。僕には文ちゃん自身の口から、かざり気のない返事

を聞きたいと思っています。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。

僕は文ちゃんが好きです。それだけでよければ、来て下さい。
僕がここにいる

間に書く暇と書く気とがあったら、もう一度手紙を書いてください。「暇と気とがあ

ったら」です。書かなくってもかまいません。が、書いて頂ければ、なおうれしいだ

ろうと思います。これでやめます。皆さまによろしく    芥川龍之介』(「手紙の

たのしみ」池田弥三郎著 文春文庫より)これは、「芥川龍之介が塚本文に宛

てた求婚の手紙といわれているものなの。羅生門を書いた同じ人の手紙なのよ

ぉ。あの、画数の多い漢語がいっぱい並ぶ、おどろおどろしい名文を書いた人の

手紙だなんて信じられないでしょ。率直でやさしさにあふれた感動させる文章じ

ゃないぃ?」リサコは、こんな文章が書きたいといった。これが人に感動を与える

手紙なのだと思うといった。「上等な文章を書こうと思わないで、相手の心にしみ

込むような手紙が書けたらねぇ、それがなかなかできないのよね、
」     


 私は、私のあだ名とリサコに呼びつけられては止められる理由が今やっとわか

った。私は四角い濃紺の箱に入った便箋と封筒である。それも一枚一枚、すべ

てにリサコの名前が金色のローマ字で刻印された特製の便箋と封筒である。彼

女は私をバッグの中に入れて時々持ち歩くが、しかしめったなことでは、私に用

事を言いつけない。私は、東京に住む親友の智葉子からリサコに届けられたも

のである。飛行機に乗り、さらに智葉子のダンナさまの実家から電車で3時間の

道のりをかけて、運ばれてきたものである。だから、彼女は後生大事にして、私の

ことを「文ちゃん」と呼ぶ。

 「文ちゃん、文ちゃんの余白に、こんな文章、書けたらねぇ~ぇ、」

                    



















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木村里紗子 Risaco






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