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リサコラム
本日のオードブル

第95回


ルージュの伝言

木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンに1990年より勤務し、400名以上の顧客を持つ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書”シンプル&ラグジュアリーに暮らす”(ダイヤモンド社)(06年6月)がある。
道楽は、ベッドメイキング、掃除、いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まること。
16年来のベジタリアン。ただしチーズとシャンパンは大好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。好きな作家は夏目漱石、中谷彰宏、F.サガン、プルースト


  「えっ、新聞に穴が!誰がいったいこんなことを!」
   「アタシよ、あなたのうしろ,”ルージュ”と呼んでね」        

 

       


ルージュの伝言





お昼休みから戻ると、ユカが伝言メモを手にやってきた。「たった今、Nさまか

らお電話がありました。葉書のお礼をお伝えしたくって、とのことでした」店内の込

み具合いを確認すると、彼女は受話器を取った。「今ね、ベッドに寝転んで本を

読んでいるところなんです」いつも同様に明るいN氏の声は澄んでいて、エアコン

の効いた寝室の清潔な響きがした。彼はこの春、定年を迎え、30数年の長い

勤務からようやく引退した。「やぁ~、家が一番ですよ。今ね、森瑶子さんの料

理本読んでいるんです。彼女は与論島に別荘を持っててね、そこで作ってた料

理を書いた本なんですよ」「へぇ、森瑶子さん、あの私、前にコラムで書きました

『デザートはあなた』の森瑤子さんですよね。う~ん、おいしそうですね」目の前

には、彼が今見ているという青い海とさざなみ、磯の香りに満ちたヨロン風の色と

りどり野菜サラダと海の幸たっぷりのパエリアの香りがぷんとした。「うん、この本

読んで、ベッドに寝転がって、本を読んでいると、リゾート気分に浸れるんですぅ」

「そうぉ~ですか。うらやましいですねぇ、私も実は、沖縄に別荘を作るのが夢な

んです。夢で終わるかもしれませんけど」彼女がベッドに寝転がって昼間に悠々

と本を読める日が来るのは、きっとあと、20年は先だろうかと想像してみた。


 3ヶ月前、彼は退職した数日後に、彼女のショップにやって来られ、その30数

年の興味深い話をにこにこしながら、彼女に話してくれた。彼は妻と二人、父親

の介護を続けながら、これまで仕事をし続けてきたことをさらさらと流れる清流の

ように語ってくれた。「これからは、家のことをするのが楽しみですねぇ。掃除ね、

掃除はいくらやっても、タダですから。しかも、きれいになる!」とこれからは、家

のメンテナンスをしながら、さらに居心地よい家にしてゆくのが楽しみだと、わくわ

くした表情で饒舌に語っておられた。


 彼は、ホテルとベッドルームと掃除が大好きな、彼女の知る中では、数少ない

ユニークな男性である。彼は、毎日自宅のお風呂のタイルをぴかぴかに磨き上

げ、早朝の散歩の後、朝風呂に入る。その悦楽をまるで、白ワインで軽くソテーし

た極上のムール貝を冷えたシャンペンで味わうかのごとく、恍惚とした豊かな表

情と表現力で話をしてくれた。もし、こんなインテリアの仕事についていなかった

ら、きっと彼とは出会えなかっただろうし、そんなユニークですばらしい男性が同

じ日本に存在することすら知ることもなかったに違いない。彼は、退職後さらに家

事の多さを知ったと言った。「不燃物ゴミの日にね、腕章をつけて、16種類にご

みを分別する当番があるんですよ。きちんと正しく分別されているか監督するん

ですよぉ」と彼は楽しげに笑いながら、こともなげに言う。姪から送られる退職祝

いを、彼、自ら指定して、彼女の元に注文メールが送られてきた。それは、イタリ

ア製の肉厚のタオル数枚と、毛足の長い白いバスマットだった。彼にとって、毎

日メレンゲ状のたっぷりの泡の石鹸で体を洗うときがオードブルであり、その肉厚

のタオルに包まれて、ソファーでしばしくつろぐときがメインディシュ。きちんとたた

まれたタオル棚を眺めるときは、いつでも、お口直しのシャーベットタイムそしてベ

ッドサイドに敷いた、毛足の長いバスマットを踏んでお気に入りのベッドに辿り着く

デザートにいたるまでの、日常と言うシーンを、唾液腺を刺激させながら一皿一

皿説明する、まるでフレンチのオーナーシェフのようである。
         


 彼は彼女の叔父、叔母と年代をほぼ同じくする。1947年(昭和22年)から

1949年(昭和24年)生まれの“団塊の世代”と呼ばれる、戦後のベビーブーム

に生まれた世代だった。つまり、彼女の従兄(いとこ)たちは“団塊ジュニア”に

当たる。彼女が始めて彼と同じ世代の叔母から買ってもらったレコードは、荒井

由実の初アルバム、『ひこうき雲』だった。ユーミンは団塊の世代から約5年後の

1954年生まれ。きっとデビュー当時から、団塊の世代のアイドルとして、不動の

地位を確立していたのだろう。子供時代は『ベルベットイースター』や、『紙ひこう

き』『きっと言える』『返事はいらない』など、音楽性はもちろん、歌詞の深い意味

も、全くわからずに聴いてはいたが、その背景に常にある、透明感のある、かっこ

いい生活がまだ見ぬ大人の世界のような気がして、きっとどこかにあるのだろうと

憧れを持っていたことを憶えている。それが、大人になってから、“わたせせいぞ

う”の連載コミック『ハートカクテル』のオールカラー単行本に出会い、これぞまさ

にユーミンの描いていた世界だと思った。と同時に、わたせせいぞうの描く世界が

ユーミンの世界にオーバーラップした。歌詞の中で、失恋中の主人公でさえ、悲

しみにくれることなく、いつ家事をこなしているのかわからないが、いつも清潔で、

お洒落なインテリアの部屋に住み、さらりと、悲しみ、さらりと忘れ去るふりをする

そして、女性は首にスカーフを巻き、男性はポケットチーフをして、ビートルや、

オープンカーに乗る。それが似合う、サンフランシスコのような坂道の美しい町に

住む。わたせせいぞうと、ユーミンの世界は、人の心情とそれぞれのインテリアに

なるシーンがこれ以上ないくらい美しく調和して、麗しいくらいにすがすがしいと

思う。その音楽は、空想の中で美しいインテリア魂をかきたてる。きっと団塊の世

代とは、ユーミンの描いた世界に憧れを持って現在を生きて来たのではないか

と、彼女は最近思うようになった。                           


 女性は、不安な思いを残したままで、ひとり、列車に乗る。              

『浮気な恋愛をあきらめなければ、家には帰らない』と伝言を残して。       

帰宅した夫は今頃、彼女の友人に電話をかけまくっているに違いない。      


 しかし、夫はケイタイメールを見たからでもなく、紙切れの伝言メモを見たからも

なく、
バスルームの鏡に、赤い口紅で書き残された、ルージュの伝言を見たか

らである。ユーミンの『ルージュの伝言』に描かれる、短い描写である。昔の洋画

で女性スパイが、ナプキンに口紅でメッセージを書いて、こっそり渡すシーンなど

がよくあった。口紅は、そんな小道具としてもよく使われてきた。なのに、今、改

めて口紅で鏡にかかれた伝言を想像すると、ドキッとする。



 彼女はルージュとは縁遠い、メンソレータムの透明リップスティックしか使わな

いようになってから、早、10年近くが経つ。今では本来の目的を果たさなくなっ

た口紅の紅筆は、水性色鉛筆で描いたイラストを水彩画風に見えるように、水

でぼかすための道具になった。この筆は、どんな筆より繊細で細やかな線が描

ける。これも
なかなか艶のある小道具ではないかと、満足気にいつも金色の小さ

なキャップを閉じる。



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