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リサコラム
本日のオードブル
第96回


夏が来れば

木村里紗子のプロフィール

マダム・ワトソンに1990年より勤務し、400名以上の顧客を持つ販売員。
大小あわせて、延べ1,000件以上のインテリア販売実績を持つ。
著書”シンプル&ラグジュアリーに暮らす”(ダイヤモンド社)(06年6月)がある。
道楽は、ベッドメイキング、掃除、いろいろなインテリアを考えだすこと。
新リゾートホテルにいち早く泊まること。
16年来のベジタリアン。ただしチーズとシャンパンは大好き。甘いものは苦手。
アマン系リゾートが好き。好きな作家は夏目漱石、中谷彰宏、F.サガン、プルースト

       
「 V4って、”4日間”走ったって、こと?」
                   「 ・・・らしいよ。」
       

 

       


夏が来れば





 石の門扉をくぐり、白い野ばらがうっそうと茂る曲がりくねった狭い坂道を、車は

バックですい~すいっと登る。「ダ、ダイジョウブですよね」「もちろん、A級ライセ

ンスですから」と軽く笑って、店長はバックミラーだけでジェットコースター並みの

坂をすいすいとバックで登った。白ばらが車の助手席の窓ガラスにその美しい花

びらをこすり付けながらたどり着いた先は、高い木々が茂る玄関の前庭である。

車が1台停まったら、空きスペースはほとんどない。だから、急な坂道を車はバ

ックで登るしかない。後で聞けば、このお宅には車がないとのこと、それを知らず

に初めて彼女が前進でこのお宅を訪問した帰り、バックで降りるか、変形5畳ほ

どのスペースで、車の向きを変えるかの選択が彼女の帰路に待ち構えていた。

逡巡した末、切り返すこと数十回。15分の格闘の末、やっと車は道に向かって

前進体勢をとった。途中、バックで降りればよかったと、切り返すたびに後悔し続

けたものの、5畳のスペースで始めた切り返し作業は、また同じ切り返しを始めな

い限り、前にも後ろにも向きを変えることは出来ず、他にどんな有効な手段もな

かった。A級ライセンスの真偽はともかく、「ほんと、店長は運転がうまいですね。

さすがA級ライセンス!」と言うと、「そうですか。私は昔、鈴鹿ハチタイ、目指し

てましたから」“鈴鹿ハチタイ”とは、真夏の鈴鹿サーキットで行われる、バイクの

8時間耐久レースらしかった。


 「ほおぅ、鈴鹿8耐デスか?いいですねぇ。夏の風物詩ですね。」「でも、そろ

そろあれの季節ですね、自転車のツール・ド・フランスですよ。あの、なにジョンで

したっけ?」「はぁあ、マイヨ・ジョーンでしょ?トップの勝者が黄色いジャージを与

えられるやつでしょ」彼は毎年、同じ言葉を尋ね、彼女は毎年、「マイヨ・ジョ-ン

(maillot jaune=黄色ジャージ)ですね」と答える。「そうそう、それ、もうそろそ

ろ始まるころですよ」「いいですね。シャンパンで始まり、シャンゼリゼのシャンパン

で終わるんですよね~」


 ツール・ド・フランスは、歴史ある非常に過酷な自転車レース。フランス国内の

全長3500kmを走破する。美しく古い街並みを抜け、青々と広がる田園風景

をバックに、9人ほどの編成の各国チームが走り抜ける3週間の感動のドラマ。

コースは心臓破りの山岳コースと呼ばれるアルプスやピレネーの山越えもある。

沿道には、ファンのキャンピングカーがひしめき、悪魔の格好をした名物おじさん

も必ず登場する。ハイになった追っかけの人々と共に、高低差2000mを平均

時速40kmで、21日間の死闘を演じるのである。そして残った選手は、シャン

パングラスを片手にシャンゼリゼの凱旋門で、フィナーレを迎える。ゴールする体

脂肪5パーセント以下の美しい肉体が3500kmを走り終え、凱旋門の周りを回

る姿以上に、シャンパンという飲み物がふさわしいと思うシーンはないと思う。日

本にはない、ツール・ド・フランスは、さしずめ、ヨーロッパの大運動会ではないか

と彼女は、いつも思う。そして、7月の声を聞くと、フランス語学科の学生時代、

フランス人の先生が2時間休まず、ツール・ド・フランス物語に熱弁をふるったこ

とをいつも思い出す。


 フランス人にとって、ツール・ド・フランスは、熱き血潮をたぎらせる特殊なもの

があるらしい。それに近いものを日本人である自分の中にはないかと思ってはき

たが、未だ見つけてはいない。そして近年勝ち続けていたのは、ランス・アームス

トロングというアメリカ人選手であった。彼はがんを克服しながら、奇跡の復活と

言われる、超人的な7連勝という歴代一位の連勝記録を刻んだ。2005年のシ

ャンゼリゼ、凱旋門で、最高に高価な黄金の泡を全身に浴びて彼の選手人生

は有終の美を飾った。熱弁をふるった先生も含め、フランス国民はどんな思い

で、勝利のシャンパンに酔うアメリカ人の姿を、7年間見続けてきたのだろうと、学

生時代を思い出すツール・ド・フランスの7月だった。           


 長い金髪をなびかせて、彼女の顧客が、今日もショップの前に愛車を停める。

「今日は、自転車ですね」「この間、バイクでツーリング、行ってきたよ~女ばっか

り5人でね。阿蘇まで日帰りよ」「そぉ、ですか、すっごいですね~いつもながら。

バイクに自転車、フルマラソン、はぁ~、すばらしい!」「気持ちよかったよ~ホ

ノルルマラソンが散々だったから、今、調整中ぅ」、金髪の彼女は肌もぴかぴかの

50代後半。先日は、道で彼女にばったり会って、グアムの美しい熱帯魚の写真

も見せてもらった。なんと彼女は、ダイビングもすれば、ソフトボールもする、ジム

に通って筋トレもする、スーパーアスレチックウーマンである。「走る、もぐる、投げ

る、あと、蹴るぐらいですねぇ、いやぁ、すっごぉ~い」夏は、美しい汗の季節であ

る。スタッフの厚子は、夏と言えば蚊取り線香の煙る、むし暑い寝苦しい夏、ユカ

はスイカと汗を思いだして、スイカは好きだが、汗びっしよりの夏は苦手だと言っ

た。Kも自分の誕生月だが、夏=汗のイメージしかなく、トータル的に夏は嫌いだ

と言う。スポーツの汗と販売員の汗は、確かに違うのだ。額に、わきの下に汗を

見せて、癒しの空間で接客はできない。だから、暑い現場に行くようなものなら、

後の汗の処理に大変な時間を要する。下着からすべて着替え、体をふきあげて

た後、店頭に立たねばならない。いつも涼しげな顔が販売員の顔だからである。

販売員の夏も別の意味で、汗との戦いである。


 「私も何かやりたいといつも思うんですがやるならダイビングですね」「やりなさい

よ~感動するわよぉ」「沖縄の海で潜ったら素敵だろうって、いろんなお話聞くた

びにそう思うんです。でもちょっと怖くて」 「ダイジョブよぉ~」そうか、この夏こそ

はと彼女は毎年思う。しかし、ついこの間、ウインブルドンが終わり、気分はテニ

スムードである。毎年この季節には、テニスが趣味の顧客との話題は、ウインブ

ルドンで終始する。今年は、史上初の6連覇をかけたロジャー・フェデラーがラフ

ァエル・ナダルに負けた。ウインブルドンが終わると、毎年彼女はテニス熱に浮か

される。しかし、ボールはなかなか自分のラケットに当たらないことをよく知ってい

る、彼女の夏は、やはり毎年、何もせずに終わりを告げる。       


 7月末、ツール・ド・フランスの最終ステージを、体脂肪を減らし続けた精悍な

自転車乗りたちが、そのスリムな肢体を輝かせて、シャンゼリゼに入場するころに

なると、店長は毎年、シルバーに輝く愛車の自転車を駆り出す。彼の自転車は

シマノ製・30段+6段切り替えのギアが付いている。盗難防止のバイク用の大き

な鍵は、ラルフローレンの生地で作った特製きんちゃく袋に入り、さらにフレンチ

な小さい手提げ袋に入っている。閉店後、彼は36段ギアを駆使して、裏山に至

る急な坂道をすいすい登り、小高い丘に瀟洒な住宅が建ち並ぶ高級住宅地を

ツーリングする。今年もシャンパン片手に、肉体の限界に挑んだ男たちが、シャ

ンゼリゼ通りに帰ってくる季節がやってきた。夏が来れば、思い出されるシルバー

の36段ギア車は、今年もきっと駆り出され、住宅地を駆け回ったあと、特製きん

ちゃく袋の中の鍵が取り出され、2日間だけ自転車置き場に置かれた後、36段

ギア車は3日間の短い夏を終えることだろう。そして次の夏が来て、また思い出

されるまで、室内で静かに待つに違いない。                    




                                      Risaco














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