ロッテン・マイヤー１号　

　好子はデスクの上の赤紫色のランを透明な安物のグラスから引き抜

くと、紙の上に置き、水の中に万年筆のペン先を浸した。紺のインク

の波はどんどん自由に泳ぎ回り、みるみる水は淡いブルーに染まり始

めた。そのグラスを淡いグレーの横罫線入りの便箋紙の上に置くと、

じっと筆先を見つめた。


　白い砂浜、青い海。咲き乱れるブーゲンビリア。耳にランの花を一

輪刺して、水着にパレオをまとい、焼けた砂浜をビーチに向かって歩

く。サングラスの下でも強い日差しは容赦ない。ビーチサイドの１点

のシミもない真っ白いパラソルの下に読みかけのペーパーバックを放

り投げると、腰を掛けた。透明な水はさらに透明なエメラルドブルー

に染まり始める。紺のインクの作り出す海の中で、好子は両手を広げ

て人魚姫のように泳ぐ自分を想像した。すぐに、日焼けしたボーイが

注文を取りにやって来た。「ア フローズン・ブルー・マルガリータ

プリーズ」ボーイはにっこりと笑うと「イエス、マァム」とだけ言っ

て音もなく立ち去る。


　「焼き魚弁当、お待ちっす！」「わあ、ノックしてよね」「しまし

たよ。でも返事ないすから」「あっそ、ごめん」いきなり陸に上げら

れたグラスの中の人魚姫はＯＬに変身した。ついさっきの出来事から

まだ日常に十分には復帰できていない好子は、焼き魚弁当のふたを裏

返した。


　「あぁ？ええっと、はい。ええ、なるほどですね」好子は受け取っ

た名刺を両手に持ったまま返事に困った。目の前の小柄な女性は『ロ

ッテン・マイヤー１号』という人物らしい。「ロッテン・マイヤー1

号さん、と言われますと？」「はい。ご無沙汰しておりました。お元

気そうで何よりです。それに、この度はお世話になっております」「

いえ、こちらこそ」好子は新たな露店マイヤー倶楽部の関係者の出現

に驚いていた。「あの、どこかでお目にかかりましたでしょうか？」

「ええ、もう１５年前くらいでしょうか。いや、もう２０、２、３年

くらいにもなりますでしょうかね？」好子は目の前に立っている８０

代の女性の２０数年前を想像してみた。「はあ、２０、２、３年です

か？ええっと」「こうちゃん、ずいぶん立派になられて」「あ、あの

ぉ、すみません。どうしても思い出せなくて」「いいんですよ、私の

方こそ、つい、失礼いたしました。私、瑠衣の祖母でございます」


「はあぁ、はぁ～い、瑠衣さんのおばあちゃんですね。ああぁ、その

節はほんとにお世話になりました。思い出しました。あの、運動会の

パン食い競争でご一緒しましたね」「いいえ、パン食い競争ではなく

て借り物競争です」「でしたっけ？」「あの時はダントツ一番でした

ね」「ええ、そうでした。私、運動会で一番なんて一度もなったこと

なかったもので。とってもうれしかったのを覚えています」「そうで

すか？憶えておいででしたか。それはよかったです」「あの、それで

その、ロッテンマイ…瑠衣さんの倶楽部とは」「ええ、私が瑠衣にア

イデアを出したんですよ。それで、数年かけて倶楽部の会員を集めて

ついに今年、目標の３０００人に達したんです」「はあ、ですか？」

「ええ、そうです。こんなに簡単に集まるとは思ってもいなかったの

ですが、」「ええ、はい。私も、びっくりしています」


　「ところで、今日は？」「わざわざ会社まで押しかけてきて、ご迷

惑だったでしょ。でもすぐにもでお知らせしたくて。今日、お仕事は

早く終わりそうですか？」「ああ、いえ、いえ。私の仕事は終りのな

いような仕事でして….」「そうですか、それじゃやっぱり私たち倶

楽部に入って下ってよかったっていうことですね」「そうなんでしょ

うか」「ええ、もちろんですとも。それで、実はね、お部屋を探され

ているんじゃないかしらと思いましてね」「私、ですか？」好子はち

ょっとぎくっとした。「ずっとおひとり暮らしでしょ」「え、まあ」

「瑠衣から、こうちゃんにいいお部屋紹介したらと言われましてね。

それで、倶楽部会員の名簿検索で問いかけをしましたらね、いい物件

を会員価格で紹介したいという方がいらして。新築なんですよ」「は

あ、」「日当たりはいいし、とても広いワンルームなんですけど、使

い方次第で、きっとトレンディドラマみたいにね。ははは、今は死語

ですよね、そんな言葉。でも、きっと素敵な生活ができると思います

よ。それに駅から徒歩０分なんですよ。今の駅より５つ遠くですが、

雨にも濡れず、自転車で駅から通う不便さを考えたらきっとそちらの

方がいいのではと思います。さらにですね、指紋認識のセキュリティ

ですから、おひとり暮らしのこうちゃんさまにはこの上ないお部屋だ

と思いますよ。そう、それに浴室乾燥機とレインシャワーですよ！」

好子は口をぽかんと開けているなと気づいたが、すでに遅かった。


　「今、レインシャワーとおっしゃいました？」「ええ、ご存じ？」

「あのリゾートホテルによくある、あの、」「ええ、あのレインシャ

ワー付きです。あのどしゃぶりの雨のように上から降ってくる、あの

レインシャワー付きなんですよ！私も実は大好きでしてね。信じられ

ないかもしれませんけどね、私ビーチリゾート派なんですよ。これで

もずっとダイビングをやっておりましてね。この年でね、きれいな海

に潜るんですよ。タヒチ、モルディブ、モーリシャス、プーケット、

クラビー、もちろん沖縄の海にもね。たくさん行きましたよ。リゾー

トはいいですね。思うんですけどね、年を重ねた日本人も、もっと水

着でビーチに出たらいいんじゃないかとね。そう、思われませんか？

青い色を好むのは精神年齢が若い証拠らしいですよ」「ええ、聞いた

ことあります」「それじゃ明日の朝、ご出勤前にどうですか？いえ、

そんなにお時間はかかりませんし、ぜひ見ていただきたいんです。そ

れではメールで場所をお知らせいたしますから。明日の朝、７時半に

現地でお待ち合わせどうでしょう」強引な勧誘には今まで何度もひっ

かかりそうになった経験もある好子でさえ、８０代の女性からこんな

勧誘を受けたのは初めてだった。「でも安心なさってね。私たち、露

店マイヤー倶楽部は、おせっかい好きな気のいい人たちの集まりで、

別名、おせっかいクラブですから。それでは、どうも」そういうと、

返事も聞かずに瑠衣の祖母、ロッテン・マイヤー１号はドアの外に出

て行った。


　急いで見送りに出た好子にヘルメットをかぶった１号は言った。

「あの運動会の借り物競争の時に私の運命を知ったんですよ。

『おせっかいな小姑（こじゅうと）はいませんか？』ってこうちゃん

大声でテントの父兄に声をかけてくれた時にですよ。これからまた

一緒に走れますね」好子は颯爽とマウンテン・バイクにまたがって

走り去る１号を見送った。