ハスキーボイスで
「エディソン・ルーム?」しかし、鈍感な私もようやく理解した。そのバスルーム
に足を踏み込んだ時に。

「市松の床 ひんやり冷たくて わたしほんのりバラ色なんて」声を上げて字余
りを読んだ。床のタイルは少しざらざらしている。きっとこれは滑り止めだよね?
どこのエディソンの発明かは知らないけれど。などと思いながらバスルームのドア
を開けようとすると、「ドアを開きます」と今度はドアがしゃべった。
私は女優気分で床の上に服を脱ぎ捨てると、シャワーブースのレバーを探した。
レバーは、ない。レバーはシャワーノズルの下にあるボタンらしい。押すと、シャ
ワーの強弱を無段階に調節できるようだった。そして、もう一つの大きなボタンを
押すとゆっくりと雨水のような滴りが落ちてきた。しかし、なかなか勢いよくレイ
ンシャワーは落ちてこない???そのうちだんだんと霧雨、小雨、そしてしばらく
かかって雨粒状のものが落ちてきて、強さを増した。私はやっとわかった。冷たい
雨を浴びないように、だんだんと温度が上がってきてから、レインシャワーは水の
勢いを増すのだということが。
ははは、それだけじゃあなかった!レインシャワーを浴びながら、さらに、La
Vie en Roseが流れるじゃあないの!ルイ・アームスロトングのハスキーな英語バ
ージョンは、スローなテンポでなかなかいい。

「古き良き にいつじゃなくて ああ、ニース」そのあとは、本家本元のエディ
ット・ピアフのLa Vie en Roseに変わった。途中で止めるにはどうしたらいいのか
わからなかったけれど、「このまま 死ねたら 私の人生 ラ・ヴィ・アン・ロー
ズ 間違いなし」とまた字余った。
きっと、音楽好きなニースかぶれの若い発明人間が考えたに違いない。人はこう
して洗脳されるんだろうか?でも、バラ色の人生に洗脳されて悪いことはなさそう
だし。

雨をかぶりながら、思い出していた。つい最近までの自分を。毎日満員電車に揺
られた1時間の通勤を実感ではなく懐かしい思いで。営業に出て、会社に戻れば事
務処理に追われた日々を。時々人生がいやになって、ほぼ毎週、居酒屋で憂さを晴
らしては終電に駆け込んだ昨日までの遠い日々を。土日はぼんやりテレビを見たり
犬の散歩に、掃除したりしているうちにアッという間に1日が終わり、そしてまた
同じ1週間を始めていた古きよき”アク”に満ちた日々を。

フランス語会話のテキストの1年分はファッション雑誌に紛れてしまった1DK
のふつうの部屋を。入会金無料で入ったスポーツジムのチケットも替えただけの果
てしなき無駄な日々を。
「ダサい?ダサい心遣いの人間は条例違反だって言ってたわよね。ゴミを拾うと
か、席を譲るとか、あいさつをするとかそんなことぉ~?シンガポールじゃ、ごみ
を落としたら罰金らしいから、わからないでもないけど~。
朝積みのバラの香りのバスジェルで全身泡立てて、それにしばらく酔い、それか
ら、強いレインシャワーを浴びた。

「こんな私 もしかして やり直せるのか ここニースで?」ルイ・アームスロ
トングのLa Vie en Roseのハスキーボイスを全身に浴びながら、今までの私に積み
重なった何かはわからないけど、何かの垢を落としている気分になっていた。
ケイタイが鳴った。誰かは想像ついた。私は雨粒に打たれながら、でも取る気に
はなれなかった。何からしゃべっていいのか、こんなに幸せな環境に自分ひとり来
てしまったことをどう言ったらいいのか、思い切り自慢してやろうか、それとも、
さびしそうにした方が面白いかな?そう考えているうちにベルは終わった。

私はバスローブを羽織ると、バスマットの上に足を置いた。タオル類は洗濯もし
てくれるって言ってたけど、そんなことまでやってくれる下宿なんて、みんなに話
したら信じるかな?私は洗面台の前で、一皮むけたような顔に対面しながら、バラ
の化粧水のビンから、2、3滴、手に取って全身にはたいた。ちょっとにやけた。
だって、そうでしょ?フレンチのお食事つきで、ホテルみたいなバスルーム。La
Vie en Roseに浸って、毎日レインシャワーを浴びて、出勤するんだもの。
「あっ?部屋はどうなっているのかな?」私は今さらながら、寝る場所を確認す
ることもなく、いい気分になってしまっていたことに気付いた。

まさか、ベッドはあるよね。ここまで来て、せんべい布団なんてないよね~。私
はバスルームの先の壁の前に立った。自動ドアだった。その先は~ああ、なんて、
夢みたい。私の前には白い四角いフレームに囲まれた大きなベッドと真っ白いカー
テンに、グリーンのストライプのカーテンがあった。そして、ぴんと伸びきったせ
んべい布団のような、いや、ベッドリネンも。大きな枕に小さな枕に、私の頭はよ
く理解できなかったけど、ネットで見るドバイかニースかイタリアのモダンなリゾ
ートホテルみたいにしか見えなかった。私はバスローブを着て長いこと、ガラスに
顔を押し当てて中を観察した。そう、自分の寝室になるはずの中を覗き込みながら
1時間経った。
私の人生はバラ色の人生に滑り込もうとしていた。とても順調に。ただひとつを
除いて。

「問題はこれ どうやったら 中に入れるのか?」
ルイ・アームスロトング風のハスキーボイスでついに字余った。

*p.s. 検索で、ぜひ、ルイ・アームストロングの”La Vie en Rose”を聴きながら
もう1回読み返して頂けますように。こんなハスキーなバラ色の人生に
リアリティを感じます。
*イラストもストーリーも実在の場所などとは関係ありません。
*上のイラストから「リサコラムの部屋」へ入れます。
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