一打逆転　

「うそでしょ…」、約束の駅の西口改札を出る手前で、好子は周りを

ちらっと見ると、コートの襟を立てた。「そんな、止めてよ～」


　『Welcome !　鈴木好子様』ショッキングピンクのマフラーを長く

巻いた、４０代にも６０代にも見える女性。派手な文字の踊る大きな

看板を高く掲げてにこにこ顔で立っている。まさかこのまま通り過ぎ

て知らぬ顔で改札を出るわけにもゆかない。かと言って回れ右して

階段を下りれば、大声で名前を呼ばれそうな予感さえ感じた。「そん

なぁ、ちゃんと行けるのに～」好子は溜息をついた。しかし好子は

瑠衣と祖母のロッテン・マイヤー１号、おせっかい軍団に恐怖感を

感じながらも、仕方なく名乗りを上げた。「あの、はじめまして、私

鈴木好子です」不自然に見えないように気を遣ってほほを緩ませた。

「ああ、よかった！見逃されはしないかと心配したのよ」「こんな、

でっかい看板をですか？」と言いそうになったが、その代り「ありが

とうございます。おかげですぐにわかりました」と社交辞令に切り替

えた。


　「ロッテン・マイヤー５１号です。趣味は野球観戦と旅行。イチロ

ーの大ファンなのよ。こう見えても、学生時代ソフトボールをやって

たの。見えないでしょ」「いえ、そんな、」言いよどんで次の言葉は

見つからなかった。「いいのよ、私たち同志はね、遠慮とか、お世辞

はなし、なし！」「同志？」心に引っかかったまま、ロッテン・マイ

ヤー５１号を名乗る女性に先導された。階段を降りながら、５１号は

学生時代、決勝戦で劇的逆転ホームランを打った自慢話を始めた。好

子は新興宗教の勧誘を受けた時と同じ、底知れぬ恐怖感を感じながら

「どう言い訳をして逃げればいいのか？」と頭の中はそのことだけに

占領されていた。もちろん、５１号の話す過去の栄光話しは全くうわ

の空だった。


　「さあ、こちらよ」５１号は駅の階段を降り切ると、すぐ目の前の

肉店の横の狭い路地を入って行った。「さあ、どうぞ」「ここ、です

か？」新築のマンションと思いきや、そこは彼女の新築の家の２階だ

った。「私、一人暮らしでしょ。だから、若い女性の下宿人を欲しい

なと思っていたの」話が違うと好子は感じて足がすくんだ。「大丈夫

よ。ほらね、２階には外から入れるし、玄関は全く別だし。こうちゃ

んにおせっかい焼くつもりないから、安心してね、ははは、おせっか

いクラブの人間のセリフじゃなけど」こうゃんと呼ばれてまたさらに

好子は落ち込んだ。「あの、指紋認識のセキュリティ付きの、賃貸マ

ンションだと思ってきたものですから。ちょっと」「もちろん、私が

人間指紋認識よ。安心して。誰も近づけないわ！」「はあ、」たんた

んたんと調子をつけて、軽やかに外階段を上る５１号の後から、両手

にペットボトルを抱えて歩くような足どりで、好子は階段を踏みしめ

た。玄関ホールは広かった。びっくりするくらいに広かった。今の好

子の寝室の広さは十分にあった。「すごい、広～い！」右壁一面の広

大な鏡は部屋をよけいに広く見せていた。「ほら、見て！」５１号は

リモコンを使って鏡の扉を開けた。「すごい、リモコンですか？」

「鏡に指紋つくのって、いやでしょ」内はハンガーと引出式の靴箱に

なっているようだ。「すごい！一足づつ引出しにしまえるんです？」

「ディスプレイするより、きちんとしまう方が好きなの。靴の箱は

不便だし。それに常に新鮮な空気を取り入れられるようにね….」

５１号は靴を脱いで鏡の扉の裏に回るように好子に手招きした。

「すごい！ここだけでも、今の私のクローゼットくらいあります」

「廊下を兼ねた換気ルームよ。そしてね、ここに好きな香りのエッセ

ンスを差し込むとね」と言いながら、クローゼットの壁の細い隙間に

ティバッグのような平たい物をストンと上から落とし込んだ。あたり

に清廉な香りが立ち込めてきた。


　廊下を過ぎてさらに奥の突き当たりの壁は自動です～と静かに開

いた。すぐに薄青白い光の群れは広いワンルームの突き当たりの窓か

ら差し込んできた。緑と黄色の派手なシステムキッチンとクローゼッ

ト扉のある２０畳ほどの部屋は床暖房で暖かだった。「こうちゃん、

お料理は得意かしら？」「いえ、と言いますか、今は全然できていな

くて」「きっと、好きになるわよ」そう言うとまたクローゼットをリ

モコンで開けてみせた。「すごい！何ですか？これ！」５１号は驚く

好子の後ろで、ほほっと笑ってみせた。高級そうな白い食器、お茶セ

ットと紅茶やコーヒーの缶のコレクションはつい先日、雑誌で見たカ

ンクンのビーチリゾートのオープンカフェを思い出させた。「未使用

なのよ、全部。趣味で集めてきたけど、使わなきゃ意味ないって思っ

てね」「はあ、これも使えるって、ことですか？」「もちろんよ」


　次にまた壁の自動ドアは音もなく開くと、二人をバスルームに続く

３畳ほどのドレッシングルームに案内した。足は半分絨毯の毛足の中

に埋まっている。作り付けの白いテーブルの上に１輪のバラの花瓶と

丸いスツール。そのスツールの上にはタオルでできた真っ白いカバー

が掛けられていた。「全部、ふかふかっぽい、すてき」シルバーの丸

い鏡を覗き込みながら好子は独り言のようにつぶやいた。その背中に

５１号はすかさず声をかけた。「姿見はここには置いていないのよ。

自分の裸見るの気恥ずかしいでしょ。玄関のを使ってね」「ええ、別

に大丈夫です」そうしてスツールに手をかけそうになる寸前、びくっ

と手をひっこめた。すでにここの住人になってしまった気分でいる。

それを察したのか、５１号はドレッシングルームの隠し扉を全開にし

た。そこには、グラデーションに並んだ女性もののパジャマが端正な

顔をして十数枚ハンガーにかけられていた。その隣りには真っ白いバ

スタオルにバスローブの丘がクローゼットの壁一面に積み上がってい

る。さらに棚の間にはアーティスティックな感性で並べられた石鹸や

トワレ、バス用入浴剤の列。押し寄せる高貴な香りと感触の中で、ま

ばゆく光るバスタブとレインシャワーをガラス越しに見ながら、無意

識の力に押し出されるように好子は口元を動かした。「お世話になり

ます。どうかよろしくお願いいたします」


　「あら、そうお、それじゃ、まだ続きがあるのよ」続く一打逆転の

過去の栄光話しは、またもや好子にはうわの空になった。