ひとり先に部屋に入っていた男は帽子をハスにかぶり、窓の前に立っていた。

天窓のある部屋は家具も何もなく、壁も塗装前のために広く感じられた。男の名は

Suzukiと言った。

　　

　　　　　　　　　　　　　


　それからSuzukiはセメントが柔らかいうちにクッキーの型抜きを押し付けて丸い

穴を開けたような台形の壁とその下の左右対称の出窓に向けて手で逆二等辺三角形

を作ると、その間から壁を見た。


　　　　　　　　　　　　　　


　「案外難しいのは、この２つの出窓のあしらいですね」Suzukiは振り向きざまに

今、部屋に入って来たこのホテルのオーナーのJiroに投げかけた。


　　　　　　　　　　　　　　


　Jiroが「はじめまして」と手を差し出すと、「はじめまして、Suzukiです。あの

今はちょっと」と言いながら逆三角形をどうしても壊したくないという身振りで握

手を遠慮した。「結構ですよ」Jiroはすぐに笑顔で対応した。


　JiroはSuzukiがちょっと変わり者だということも重々承知したうえで、Suzuki

にこのホテルの最上階の部屋のインテリアを依頼したのだった。だからまずはスト

ライクゾーンのど真ん中に入ったわくわく感をJiroは覚えた。


　　　　　　　　　　　　　　


　Suzukiは日本人の父とアメリカ人の母を持ち、その父は若い頃、画家を志してい

た職人で、子供の頃からその父の手伝いをしてきたSuzuki少年は芸術的なセンス

と繊細で丁寧な仕事をする父のDNAを受け継ぎ、さらに同じ分野の職人になった。

Jiroはその人柄もセンス以上に確かだという評判をあちこちで聞き回って確かめ、

彼自身、納得した上で、2016年の初夏に始めてSuzukiを起用した。


　　　　　　　　　　　　　　


　「運命的な出会い」Jiroはこれまで大事にして一度も使ったことのなかったこの

言葉を始めて家族の前で口にした。


　「あの、さっきのは、どう難しいんです？」Jiroはまだ逆三角形を壊さずにいる

Suzukiの背中に声をかけるとSuzukiは「バランスです」とだけ答えた。「なるほど

バランスね、それ、大事ですね」Jiroはちょっと笑いそうになりながらも、風変り

なSuzukiの真剣なまなざしに、何かを嗅ぎまわっている犬を見ているような気がし

ていた。


　　　　　　　　　　　　　　


　「まあ、なんとかなるでしょう」「なんとかと言いますと？」「なんとかね」

Jiroは「なんとか」の意味するところに深入りしようとしたが、Suzukiというアー

ティストに対する不審の表現にもとれるかもしれないと感じて瞬く間にその意識を

払いのけた。


　　　　　　　　　　　　　　


　「窓は焦点ですから、その装飾によって部屋のイメージが大きく変わります。屋

根の傾斜を利用した高い天井の部屋、二つの小さな出窓、生かすも殺すも、窓の使

い方次第ですから」「なるほど、それはわかります」Jiroはすぐに同意した。

　　　　　　　　　　　　　　


　「Jiroさん、ここは特別室の予定ですよね」「ええ。ハネムーン、結婚記念日、

何かの記念日に使っていただきたいと思っています。それとここはバルコニー付き

の大理石の広いバスルームが自慢なんです」「なるほど、それは結構です。しかし、

それだけですか？」「と言いますと？」「このあたりのホテルはみんな海に向かっ

て開口するのが当たり前のようなところですが、マイアミなんでね、なのに、どう

してここはそうではないんです？」


　　　　　　　　　　　　　　


　「ああ、それですか。私は他と同じことをするのが嫌なだけです。以前、新婚旅

行を兼ねてイギリスの風情のある田舎町に行きましてね、そこでとてもすばらしい

ホテルに出会ったんです。以来、いつかこんなホテルを持ちたいと思い続けていま

してね。もともと、日本で旅館業を営む家に生まれたものですから、跡を継ぐつも

りではいたのですが、父と大喧嘩しまして家を飛び出した挙句、この地にたどりつ

いたのです。いろんなホテルを転々として貧乏は幾度も体験済みです。しかし、私

にはその目標ができたので、寝る場所代と時間も節約したくてホテルに住み込んで

朝食のボーイから、レストランのバーテンまで掛け持ちもしました。そうして家賃

を貯金して頑張って、やっとここまで来たんです。小さなホテルですが、これは日

本を飛び出した時から、見返してやりたい一心でね、頑張ってきた成果だと思いま

す。ここでは、頑張った過程は全く重要視されません。結果がすべてでしょ」Jiro

は笑ってはいなかった。


　　　　　　　　　　　　　　　


「ふ～ん、そういう経緯で、なるほどね」Suzukiはうなずきながらも逆三角形を崩

さずにいた。

　「ここの人々にも、コッツウォルズにでも行った気分であの穏やかで優雅な時間

を過ごしてもらいたくてね」Jiroは丸くくり抜かれた高窓を眺めた。「あれが私の

ホームランの軌跡です」SuzukiはJiroの顎の角度を横目で見ながら、「もしかして

Ichiroのファンですか？」と尋ねた。「ファンどころではありません。追っかけで

す」Jiroは笑ったが、すぐにまじめな顔に戻った。


　　　　　　　　　　　　　　


　「それなら、私、Ichiroとは実は懇意でして、何かの機会にパーティかなんかを

開いてこの部屋に招待するなんてどうです？」Suzukiはやっと逆三角形を崩した。


　　　　　　　　　　　　　　


　Jiroはやっとニヤッときれいな歯を見せた。「Ichiroのメジャー通算３０００本

安打の記念にともくろんでいます。実は私の名前もあなたと同じSuzukiでして、

Ichiroとは一文字違いの鈴木次郎なんです。しかも学年も同じ。そんな名前を最初

は恨みました。しかし、だんだんと考えも変わりましてね、よくある名前ですから、

妙な運命を背負った人間が私みたいにきっと大勢いるだろうと思って、一郎にできな

いことで、次郎にできることを探せばいいんだとね。だから、ずっとずっとあなたに

出会うことを願っていたのですよ」


　　　　　　　　　　　　　　


　Suzukiが今度はニヤッと笑った。「部屋番号２９９９を見たとき、すぐに気にな

って、ピンと来てはいました。なんでそんな変な数字なんだろうとね。日本人は９

を嫌いますからね。しかし、イチロウの１を足して、３０００ということです、ね」

「ええ。その通りです。あまのじゃくが考えそうなアイデアでしょ、ははははは…

しかし、さすがにSuzukiつながりでいらっしゃいますね、やっぱり簡単に見破られ

てしまいました」


　　　　　　　　　　　　　


　Jiroはうれしさを抱えきれないとでも言うように大げさな身振りで表現すると、

部屋の中心に立ちバッターボックスに入るIchiroの身振りそっくりに真似をした。


　「ここでバットを振ったら、ちょうどあの丸い窓からホームランボールが飛んでゆ

くイメージです。窓は開閉しますし、念のため、軌跡上にネットも準備しております

から、ご安心を」


　　　　　　　　　　　　　


　そしてバットのない右手をすっと前に突き出すと、Ichiroの打撃前のポーズをと

った。

　「もの、こと、ほん」は下の写真から。

　　　　　　　　　　　　

p.s.2
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　　　どこでもドアをクリックして中身をちょっとご見学くださいますように。

　　　　　　　　　　　　　　　　　



　　バックナンバーの継続表示は終了いたしております。

　　書籍化の予定のため、連載以外のページは見られなくなりました。

　　どうかご了承くださいますように。